成長を求めない大学生活へ
恥の多い学生生活を送ってきました。
自分には、「成長」というものが、見当つかないのです。
この一文は、大学生活で僕が常に感じていたことをそのまま表しています。
ご挨拶が遅れました。
初めまして、「ヒダリウマ」です。
今回このブログのこの記事が、正真正銘僕の処女記事ということになります。優しくしてくれると嬉しいです。
今年の夏前に就職先が無事に決まり、残りの大学生活も100日を切ろうとしています。
今回は、何故この時期になって大学生活に関するブログを立ちあげようと思ったのか、どんなことをこのブログで主張していくのかについて、徒然なるままに書き殴っていきたいと思います。
大学生活4年間で常に思っていたこと
1年間の浪人期間を経て、地方から上京して大学生となった僕は、風の吹くまま気の向くままに大学生活を過ごしてきました。
そんな中で、ある時ふと、僕ら世代の大学生の間で恐ろしいほどの感染力を持った「ある言葉」が流行っていることに気付きました。
それが「圧倒的成長」という言葉でした。
圧倒的成長!!
今聞いても薄気味悪い言葉です。身の毛がよだつとはこのことでしょう。
この言葉は一度取り憑かれたが最期、学生生活が終わるその瞬間まで高い意識を持った言動を肉体に強制し、「忙しい」「時間無い」という言葉を美徳と捉えさせ、スタバでMacBookを開いていることがこの世で最大の悦びであると錯覚させてしまいます。
多くの友人達が圧倒的成長に飲み込まれていきました。残念ですが彼らはもう…
そのような中で私はその環境に対して常にアンチテーゼを示し、それのみが大学生活の価値ではないのだ、ということを叫び続けてきたのです。
もちろん、僕の生活は決して褒められたような生活ではなかったと思いますが。
ですが、常に自分を何者かへと昇華させることのみを求めて、やるべきことに追われて生きるのみが、この大学生という期間を過ごす上での最適解だとは、どうしても思えないのです。
これは決して「学生のうちに遊んでおけ、社会人はつらいぞ」と言いたい訳ではありません。
社会人には学生にはできない楽しみがあり、魅力があると思っています。僕も社会人になることが今から楽しみに思っていなくもないような気がします。多分。
ですが、やるべきことに囲まれながら成長を実感する、というのは社会人になってからでも出来る楽しみ方なのではないか。
要は学生にしか許されない「楽しみ方」があり「感じ方」があるのだ、と僕は主張したいのです。
故にこのブログは、ほんの少しでもいい。
どこかにいるかもしれない、僕と同じように
「圧倒的成長…?なんだそれは…(ドン引き)」
と思ってる人をターゲットに書きました。
あ、もちろん読んでくださるのであればそれ以外の方々でも大歓迎ではあります。
いえむしろ読んでくださいお願いします
何でもしまs(ry
改めて…
必ずしも圧倒的成長に蝕まれる必要は無い。どんな環境だって人は成長するし、何をしてても学ぶことが出来るし、何にだってなれるんだよ、ということを伝えたいです。
この世界にある何だって、知らないよりは知ってる方がいいに決まってる。
間違えたらやり直せばいい。
やりたいことに正直に、心ゆくまで全身全霊で楽しむこと。
これを大切にしていれば、きっと他の圧倒的な人達に負けないくらい、魅力的な貴方が大学生活で醸成されていると思いますよ。
私が大学生活でやったこと
さて、綺麗事の時間はここまでです。
いかがでしたか?
少しでも僕が真面目な人間に見えたのならこれ以上の悦びはありません。
先にも述べた通り、私は褒められたような生活はしてきませんでした。
知らないよりは何だって、知ってる方がいいに決まっている。
その主張を盾に、競馬などのレースゲームからパチンコ、スロットといった遊戯、はたまた麻雀などのボードゲームなどといった、それはもう慎ましやかな遊びに勤しみました。
かと思えば何日も家に引き篭ってアニメや読書に明け暮れてみたり、手巻きでタバコを作って延々とテイスティングをしながら珈琲豆のブレンドを試作し続けたりなど、それはもう興味のままに、本能のままに、獣のように生きてきました。
全ての経験から学びがありました。
何もかもが私の糧となり、人生に深みを与えてくれています。
大学生が持つ最大の資産は「時間」です。
この資産を今後この健康体のままで行使できる人は、決して多くはありません。
なぜなら時間の価値は相対的で、残りが少なくなればなるほどその価値は急激に高まっていくからです。
だからこそ大学生は、持てる時間の全てを使い、自分の興味を限界まで刺激しなくてはならないのです。
何よりも貴重な時間という資源、せっかくのその資産を社会人ごっこで消化するなんて勿体ない。
嫌でも卒業すればそのごっこ遊びには興じることが出来るのだもの、今は死ぬほどくだらないことに死ぬ気になったって誰も咎めはしないでしょう。
これが僕がこのブログで主張したいこと、興味があるなら何だってやれということです。
僕はこのブログがその背中を押すためのツール、もしくは少しでもその教科書となればと思っています。
お察しの方もいるとは思いますが、
えぇ、そうです。
沼へと引きずり込もうとしてるだけなんですけど。
近いうちに更新します。
良かったらまた読んでくださると嬉しいです。